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2008年03月29日

あなたも「ライアーゲーム」を戦っている?!


なぜ人は「ウソ」をつくのか? ひとつには、相手を自分の望みどおりに「操る(コントロールする)」ためです。

思い通りにお金を貢がせたり、自分にサービスさせたり、時には自分のために命を投げ出させたり・・・。そして、これは明らかに「罪」です。「オレオレ詐欺」でお年寄りから老後の生活資金を巻き上げるのは、法律がどうのこうのという前に、倫理的に「悪いこと」です。




しかし、たとえウソをつかなかったとしても、そもそも、人は人をコントロールしようとするものなのです。たとえば「権力」、たとえば「お金」、こうした「パワー」を手に入れた者はそれを使って人々をコントロールします。

これだって悪に堕する可能性はあります。たとえば、大金持ちが殺し屋を雇って誰かを殺させたとしたら? たとえば、大企業の社員が、新規契約の見返りに、
出入り業者からキックバックを受け取ったら? 今さら、悪代官や越後屋が登場するまでもなく、また「権力は必ず腐敗する」なんて古臭い教訓話を蒸し返すま
でもなく、我々はパワーの悪用にうんざりしています。実際、暴力でカツ上げを繰り返すチンピラから、国を売る大臣まで、パワーの横暴はいまだに後を絶ちま
せん。

とはいえ、パワーには善なる部分もあるのです。たとえば、経済力があるから事業を起こし、仕事を増やし、生活を豊かにすることもできる。権力があるから犯
罪も取り締まれるし、個人や企業にルールを守らせることもできる。パワーは文明社会の必需品でもあるわけです。信号や交通規則の無い街路とか、ルールの無
いスポーツなんて、想像するだけでも恐ろしい。

つまり、パワーそのものが善とか悪というのではなくて、それを使って「どのように?」「何のために?」コントロールするのか? そこが重要なのです。「パワーとはさみは使いよう」といったところでしょうか。



そして、「ウソ」というものも、人をコントロールするものである以上「パワーの一種」と考えられるのです。

頭から悪と決め付けられがちな「ウソ」ですが、実はそれ自体が悪いのではなく、その使用法と使用意図に問題があるということになります。

こうなると、昔から言われている「ウソも方便(ほうべん)」という諺が、妙に現実味を帯びてくるとは思いませんか。



そもそも「ウソ」って何でしょう?



辞書を引くと、「(1)真実ではないこと。また、そのことば。いつわり。(2)正しくないこと。(3)適当でないこと。・・・」と書いてあります。何となくわかったような気もするのですが、それでは、「『真実』って何?」と考えると、これが、けっこう難しいわけです。

そもそも、「真実」などというものは、偉い哲学者や科学者が総出で、「ああでもない」「こうでもない」と、大ゲンカの末に、それでも答えが出ないシロモノなのです。

まあ、「教科書」に書いてあることが「真実」だとか、先生の言うことが正しい、とノーテンキに信じている人には、このあたりの悩みはわからないでしょう。
でも、これもまた立派に「倫理的」な大問題。なぜなら、我々は、自分でその気がないのに結果的に「ウソ」をついて生きていることになりかねないからです。

我々は何が真実かもわからないまま、あたかも、それを知っているかのように振る舞っている。まず、これだけでも詐欺みたいなものですが、我々は毎日の生活
や仕事の中で、たくさんの意見を言い、たくさんの結論を下し、何らかの「力」を行使して他人に影響を与えています。なんとなく「真実」を知っているという
幻想が、誰かを苦しめている可能性はないでしょうか?



つまり、パワーであれ、ウソであれ、それを「使わない」という消極的なスタンスで責任逃れしている限り、その気がなくても悪を行ってしまう可能性や、悪に加担してしまう可能性があるのです。


心理療法の一種に「行動療法」とよばれるものがあります。この療法ではその昔、過度な飲酒とか暴力といった「不適応」行動を抑制することに焦点が当てら
れ、努力が繰り返されてきました。しかし今日では、それ以上に、「適応的」な行動を形成し促進することに力が注がれるようになっています。たとえば、パン
を盗むという不適応行動を抑制することはもちろん大切ですが、そんな情けない行為をしなくてもすむように、仕事をしてお金を稼ぐという適応的な行動を習得
させることに、もっと重点を置くようになったのです。



ウソをつかない、パワーを乱用しない、もちろんそれも大切なことです。しかし、もっと大切なのは、そうしたパワーを善意に基づいて、人のために使うということではないでしょうか。

誰かのために自分のパワーを使う。たとえそのパワーが「ウソ」とよばれるものであったとしても、我が身を削って誰かを助けようとする行為は美しいものです。誰かを喜ばせたい、幸せにしたいと願って使われる「ウソ」には素晴らしい価値が隠されています。

人はそれを「愛」とよぶのです。

愛の無い真実や清廉潔白さほど空しいものはありません。私ならたっぷりと「愛」の込められた「ウソ」の方を選びます。
posted by miracle-yan at 05:00 | 心理学レッスン 最終回
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